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地租改正について

山口県の地租改正

  • ◆ 地券の発行

明治4(1871)年1月、政府は広く税制改革を行うことを宣言し、翌年の2月には『地券渡方規則』を発布しました。 これが「社会科」で習った「地租改正(ちそかいせい)」です。簡単にいえば、江戸時代は田んぼで作った米の取れ高に応じて 「年貢」が徴収されていたのですが、地租改正によって土地に値段が付けられ(地価という)、この値段に応じて税金(地租)が 徴収されました。すなわち、明治新政府は作柄(さくがら)に関わらず、毎年一定の税金が得られるという新しい制度を採用した のです。

 このためには当然のことながら、一つ一つの土地について地価を算定する必要がありました。そして一つの土地(一筆;ひと ふで)ごとに「地券」が発行され、その土地の所有者に渡されました。この国家プロジェクトは実際には県単位で実行に移された ため、その作業は県によって進め方が異なります。

 山口県の地租改正に関する先行研究はいくつかありますが、これらを読んでも、田の地価をどうやって算定したか? が分かり ません。当初はどこかに(論文や活字本)に書いてあると思って、関連する文献や書物を片っ端から読んでみたのですが、 肝心の「現生米(げんせいまい)、後述」についてはあれこれ書かれているものの、結局どうなったかが書いてなかったり、 はじめから何も触れてないものまでありました。よって地価の算出方法をいくつかの土地に対して具体的に記述をしたものは 皆無でした。

 その後、 現生米についてはだれも明らかにしていないということを知りました(その道の人に教えられて)。「ならば」と 取り組んではみたものの...。ここでは、現時点で判ったことなどを書いてみたいと思います。




山口県では権令(現在の知事)中野梧一のもと、明治5年から土地所有者に地券(壬申地券;じんしんちけん)を交付する 事業に着手しました。これは全国に先駆けて遂行された試行的な実施でした。すなわち、山口県の他、数県が「うちがまず やってみま〜す」と名乗りをあげたのです。しかし、山口県においては、ここが要領のいいところというか、一つ一つの 土地を丹念に測量するのではなく、宝暦時代に萩藩が実施した検地(1761〜1763)の帳面と、その後の村の帳面(具体的には 春定名寄帳;はるさだめなよせちょう)を利用した机上の作業が主体となったのです。たしかに、宝暦の検地は緻密に行わ れたものだったのですが、それから100年以上が経過して土地の形や面積、取れ高は現地と合わないところが多くあったのです。

 さらに 政府は壬申地券発行の終了を待たずに、明治6年7月に『地租改正条例』を公布します。朝令暮改というか、まだ 前の制度の作業が終わらないうちに、次の制度が発布されたということです。この条例の後に発行されたのが 「改正地券」と 呼ばれるもので、この作業も明治14年にようやく完了します。しかし、もともと測量をしなかったというツケがその後も 尾を引き、結局、明治17年の「地租条例」の公布まで変則的な運用をすることになり、明治20年に測量を実施したのです。

地券


  •    壬申地券

和紙が使用されている。







  •    改正地券

少し厚いコピー用紙のような紙が使われている。

  
  •           表                
地券
地券












「壬申地券」発行の目的は、@土地に番号(番地)を付ける、A土地の所有者を明らかにする、B土地の地価を明記する、ということで、 これによって税金を徴収する環境を整えたのです。さらに「改正地券」は、土地の売買を許したことから、裏面に売買を記録する欄が印刷 されています。


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地価の算定方法

  • ◆ 地価をどのようにして決めたか?

さて、本題に移ります。一筆一筆の土地の値段(地価)をどのように算定したか。これはその土地の種類(地目;ちもく)によって異なります。 ここでは始めに着手された「田」、「畑」、「郡村宅地」について説明します。なお、「田」は米を作る土地、すなわち水田です。「畑」は水田以外の農作地、 「郡村宅地」は宅地と考えてください。


  • ● まずは簡単な畑から

畑の地価を求めるためには、まずその土地の面積を使います。前に述べたように測量をせず、江戸時代の検地などの帳面から面積を調べます。 次にその土地の等級を決めます。これは道に面しているか?、とか、人里から遠いか?などの条件で評価し、18段階の査定をします。 一番条件が良い評価は1円/反、最悪の土地は5銭/反の評価になります(反;たん,1反は300坪)。面積と評価が分かれば地価は算定できます。

 例えば、面積が1反1畝14歩 で、評価が上ノ上(1円/反)の場合、

  1反1畝14歩 = 1 + 1/10 + 14/300 = 1.146666反

のように、面積を反の単位で表し、

  1.146666反 × 1円/反 = 1円14銭7厘

これが地租、すなわち、毎年納める税金になります。

このとき地価の3.2%が地租になるように地価が決められたので、

 1.147 ÷ 0.032 = 35.84375円 ⇒ 35円84銭3厘

となります。

 このように、地価が先に決まるのではなく、地租が算定され、それが地価の○%になるように、という流れで地価が決められています。 「地価」とはその字のごとく「土地の価格」ですが、政府の興味は税収となる地租がいくらかということなのです。実は税収が先におおよそ 決められていて、つじつま合わせに地価が逆算されているというからくりが、要所要所で見えてきます。これは後ほど。

 地券には土地の評価は記載されていませんが、地価と面積が書かれているので、上に示した計算式から逆算すれば評価が分かります。



  • ● 郡村宅地の場合は...

郡村宅地の場合も畑と全く同じです。その土地の面積を使い、立地などの条件から18段階の等級が決められました。



  • ● 田の場合は...

さて、問題は「田」です。この場合、田の面積は全く関係ありません。
 山口県文書館にある「山田家文書」の中に『旧新増減帳』というものがあり、この中に田の地価算定方法を示した「現生米歩引法」が以下のようにあります。

「一上ノ上田反歩ニ付
    現生米貳石
    地価九拾三円七拾五銭

    此法石ニ付四拾六円八拾七銭五厘
    ヲカケレバ知ル也其余は上ノ中より
    歩引方法有之例□バ上ノ中田ハ
    現生米貳石ヘ九ヲカケレバ壱石八斗ト成之
    是ヘ四六八七五ヲカケレバ地価何拾何円
    と知ルナリ或ハ上ノ下ハ八ヲカケ中ノ上ハ七
    □ヲカケ順々九等相分ル之      」

 これを解説しましょう。

 田の場合は9段階の評価をします。最上級が「上ノ上」、以下、「上ノ中」、「上ノ下」、「中ノ上」、.....、「下ノ下」となります。

上ノ上の場合、この土地の「現生米」が2石だったとした場合、

    2 × 46.875 = 93円75銭

となり、これが地価になります。上ノ中の場合は「現生米」の2石に0.9をかけて同様の計算をします。すなわち、

    2 × 0.9 × 46.875 = 84円37銭5厘

が地価になります。
 このように土地の評価が悪くなるに応じて係数を下げていきます(上ノ下は0.8、中ノ上は0.75...というように9段階に歩引する)。

ここで『46.875』とは何か?これがまた複雑ですが、これは意味が判っています。当初、米1石の土地の地価は30円に設定されました。 これは当時の米の相場より、1石が3円と設定され、このうち経租(大蔵省に納める税)を90銭、緯租(民費)を60銭とした合計1円50銭が地価の5% になるように地価が算出されたからです。式で表すと、

   1円50銭 ÷ 0.05 = 30円

となります。ここでも税金の取り分を先に決め、逆算して地価が決まってることに気づきます。
その後、地価の5%の税金は取り過ぎということになり、結局、3.2%に落ち着きました。式で表すと、

    1円50銭 ÷ 0.032 = 46.875円

となります。これが46.875 [円/石] の根拠です。鋭い人はここで「おや」と思われたでしょう。5%の税金が取り過ぎなので、3.2%に引き下げたといいながら、 実は地価を吊り上げて税金が3.2%になるようにしただけです。よって徴収する税金の額は変わらないことになります。数字の遊びというか、とんでもないと いうか。
  ....でも実際はとんでもなくはないのです。ほとんどの土地について、地租は江戸時代の年貢よりも低くなっているのです。むしろ人々は自分の土地の 評価が上がる(地価が上がる)ということで、すんなり受け入れたようです。

ともかく、1石の場合は46.875円の地価となり、これに上で述べた「現生米歩引法」という係数がかけられ、不便な土地にはそれなりの配慮がなされたのです。 結局、

   地価 [円]= 現生米 [石] × 評価に対する歩引 × 46.875 [円/石]

ということになります。

 では田の地価算定方法で何が判らないのかというと、先ほどから何度か出てきている「現生米」というものです。「現生米」を個々の田についてどのように 調査し、その決定値が幾らかを示した史料が見つからないのです。
 上で述べたように地券には地価と面積が書かれていますが、現生米や評価は記載されていません。地価からこの2つを逆算しようにも、『変数が2つ、 式は1つ』であるため、解が求まりません。

 「現生米」の決定については、小郡宰判の大庄屋で、明治4年から県庁租税課専勤を命ぜられた林勇蔵が関わっており、その過程が『林家文書(山口大学 所蔵)』に残されています(私は現物を展示で見ただけですが)。この文書を使った先行研究として、小林氏の論文(『長州藩明治維新史研究 後編』、 第2章、地租改正、未来社、1968年)があります。この中で地租の対象地の記述において「それらはいずれも旧藩時代の反別・石高によっているが、 出生米(現生米)を出すとき、いちおう捨象されている。」と解説されています。また南吉敷郡における地券税法実施についての実地調査の細部協議 (明治5年10月)の中に「出生米は歩刈をせず、高にもよらず、まず何程預ケ(小作料)なるよりして出生米を査定する。預ケ米はその地の地主に よって高下があるから、小作人の善悪、または小作料の高下や売買値段などを聞合・斟酌して立てること」と書かれています。

 これは現生米の決定は宝暦検地帳の石高ではなく、小作料を元に査定が行われたことを示唆しているのですが、『その方法を採用した』とは 書いてないのです。また具体的に小作料から現生米を算出した史料は見つかっていません。林家文書に限らず、県内の庄屋文書の中にも(これは 一応目を通しました)、現生米を算出した断片すら見つかりませんでした。もっと簡単な算出方法があったのではないかとも思えます。

★史料が残っていない理由を考えてみると...
 一旦地価が決められれば、もうその土地がどんな評価であったかということは、それほど重要なことでは無くなってきます。例えば、道から 遠い不便な田が地価算定の際に下ノ下の評価となり、その後、道が整備されたとしても、評価を上げて地価を見直すことは全くされていません。 一度決まった地価はその値のみが一人歩きの状態、その根拠はむしろほじくられないほうが良かったのかもしれません。で、廃棄した...?

 それはともかく、これまで周南市のある地区について、現生米がどのように算出されたのかを調べてみました。上で述べたように、 『変数が2つ、式は1つ』の状態ですが、評価に対する歩引率は9通りしかないのが分かっているので、とりあえずこの9通りの歩引率を代入して 「現生米」を逆算しました。これにより1つの水田に対して9つの現生米の予想値が求められます。この中に小数第2位で割り切れるものが 出てきます。これは現生米が○石○斗○升までの有効数字で決められたことによるものと考えられ、これがこの土地の現生米と予想されます。

 例えば、地価が35.063円の田の場合、

  上ノ上 35.063 ÷ 1.0  ÷ 46.875 = 0.7480106
  上ノ中 35.063 ÷ 0.9  ÷ 46.875 = 0.83111229
  上ノ下 35.063 ÷ 0.8  ÷ 46.875 = 0.9350133
  中ノ上 35.063 ÷ 0.75 ÷ 46.875 = 0.9973475
  中ノ中 35.063 ÷ 0.7  ÷ 46.875 = 1.0685867
  中ノ下 35.063 ÷ 0.65 ÷ 46.875 = 1.1507856
  下ノ上 35.063 ÷ 0.6  ÷ 46.875 = 1.2466845
  下ノ中 35.063 ÷ 0.55 ÷ 46.875 = 1.3600194
  下ノ下 35.063 ÷ 0.5  ÷ 46.875 = 1.4960213

として、9通りの現生米の予想値を算出します。これをよく見ると、歩引率に0.55を仮定したときの現生米が1石3斗6升でほぼ割り切れています。 よってこの土地の評価は「下ノ中」で「現生米は1石3斗6升」と求められると考えました。

 これは鋭い! と自分でも思いました。しかし、色々な土地にこの方法を適用すると、現生米が小数第2位で割り切れるものが複数出てくることが 多いことに気が付きました(歩引率が0.5から0.05づつ増加しているので、5の倍数で割り切れやすい)。

 宝暦の検地帳と地券の両方が現存している土地がそれほど多くなく、さらにいくら測量をしなかった地租改正といえども、多少の変更作業がなされて いて(例えば、こまごました田を隣接した田と合わせて一筆にする)、サンプルを集めるのが大変でしたが、宝暦の検地と地券で面積が同じで、 且つ、現生米の予想値が1つに絞られる土地は6つ見つかりました。

 その結果、宝暦の検地で評価された土地の石高は現生米の算出に使われていないことが立証できました。では、現生米はいったい....、で、 現在止まっています。

以上、『徳山地方郷土史研究』 第22号 (2001年3月) に投稿した内容を分かりやすく書いてみました。



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地券の変遷

  • ◆ 地券の変遷
地券

これまで古道具屋さんやフリーマーケットでちょこちょこ地券を購入してきました(右写真)。これに費やした金額は数千円くらいのものです。どうしたものか山口県の地券はYahoo!オークションによく出品されていますが、相場は1枚が1500〜2500円のようです。 落札したことはないですが...。ある程度集まってきたところで、じっくり見てみると色々なことが分かってきて、それをここではご紹介したいと思います。



地券

まずは一般に「壬申(じんしん)地券」と呼ばれる和紙に書かれた地券があります。「壬申」とは山口県が地租改正に着手した 明治5年のことですが、地券の発行は翌年にずれ込みました。右の地券の発行は明治6年12月になっていますが、これまで私が見て きた山口県の和紙の地券は全てこの年月です。

 ※地券の場所に現在もご子孫がお住まいであることが考えられるため、番地と持主名は写真に写らないようにしています。

「地券の発行」のところで述べたように、壬申地券発行の目的は、

@土地に番号(番地)を付ける
A土地の所有者を明らかにする
B土地の地価を明記する

地券

ということで、和紙の地券にはこれらに関する記載はあります。ちなみに、壬申地券の裏面には何も書かれていません(右写真)。しかし、

C地租を取る
D土地の売買の解禁

という次のステップには対応できるものではありません。


地券

私のコレクションにはありませんが、

C地租を取る

を満たした壬申地券があります。
代価の記載の横に

「百分之三 金  地税」

とあり、代価(地価)の3/100(3%)が税金であることが明記されています。
この記載がある壬申地券も発行年月は同じです。これより壬申地券は二種類ある、ということができます。


地券

明治9年に発行された右の地券は、地租が代価(地価)の「百分ノ三」と明記されています。 薄手の賞状のような紙質で、壬申地券に比べると風格が...。







地券

裏面には「日本帝国ノ人民土地ヲ所有スルモノハ必ラス地券状ヲ有スヘシ....」と印刷されています。

ここで重要なことは、右写真の左に朱書きされた内容です。

「表書之地所今度(名前)ヨリ代価弐拾六銭ニテ買得ニ付地券書換渡モノ也」

すなわち、この土地の壬申地券が明治6年に発行されたものの、明治9年に26銭で土地が売買され (安い! まあ狭い 所だが)、新しくこの地券を作成し、裏面にその経緯(売買)を記したのです。

地券

明治10年に発行された右の地券は、「改正地券」と呼ばれることもあります。「地券」という文字の上に 「明治六年改正」と印が押されています。地租の比率が明治10年までは百分の3、明治10年からは百分の 2.5と記載されています。
 裏面は一つ前の写真のものと同じく、「日本帝国ノ人民....」で、朱書きで売買が書かれています。

地券

明治14年に発行された右の地券にも「明治六年改正」と印が押されています。

 しかし、地租の比率が明治10年をまたいで異なるという記載は、もはや不要であるため、地租は百分の2.5とのみ記載されています。

地券

この地券の大きく変わったのは、右写真に示した裏面です。売買を記入する欄が5つもあり、土地の持ち主が変更しても、地券を新調せずに すむことになります。

...限りある資源を大切に、ということもあり?

土地の売買が一般化することによって、地券も変化していったことを示しているのでしょう。

地券

地券の発行は県が行うのですが、その職務を行った部署も変化したものと思われます。壬申地券では県令名(今の知事)で発行されていますが、 改正地券では「山口県」と書かれ、明治11年からは「主事」として郡長名が書かれています。山口県においては明治11年に郡役所が設置され、 地券の書き換えを県の分任業務として行っていました。しかし、右写真のように「山口県六等属」という肩書きの主事もあり、このあたりの ことはよく分かりません。


地券

明治14年に発行された右の地券にも改正印が押されていますが、「明治九年改正」になっています。

上にあった明治六年改正と何が違うのか。それは、「地目が山林」であるということです。右の地券には「薪炭林(しんたんりん)」と ありますが、文字通り、薪(まき)や炭(すみ)にするような木が茂っている山林ということです。この他、柴草山や竹林、また単に 山林、というものなどがあります。

山口県においては山林の地券発行は大幅に遅れ、明治14年発行以前のものは私がこれまで見た限りではありません。


今でもある家の蔵から、まとまって地券が出てくることがあります。そのとき、壬申地券と改正地券が混在していることが多くあります。これは明治6年に初めて壬申地券が発行されたときから、地券制度が廃止されるまでその土地を手放さなかった場合、 壬申地券はずっと有効であったことを示しています。壬申地券発行の後、土地を購入すると、改正地券が発行され、それを所持する ことになります。土地を売った場合は、所持していた地券を手放すことになります。売買によって効力を失った地券は厳格に処分 されたようで、同じ土地に対して2つの地券が存在した、という事例には出会っていません。

ここで思うのですが...、明治6年に発行された壬申地券は和紙を使い、県令名で発行された風格のある証書でした。しかし、その後の法改正に全く適応したものではなかったため、その形式で発行されることはなく、ぺらぺらの地券に 切り替えられました。このとき、発行した壬申地券を全て回収して、ぺらぺら地券を発行するのではなく、所有者の変更が発生し、壬申地券を訂正する必要があった場合に、ぺらぺら地券を発行し、壬申地券を回収したわけです。

全部回収というのは確かに大変で、費用削減には寄与しますが、そもそもよく計画せず(無理もなかったのか)に壬申地券を 発行した責任はどうなるのか。当時のマスコミがそのことを追求したとも思えませんが。

地券

最後に、平成18年の夏にフリーマーケットで買った右の地券をお目にかけます。

値切ったんですが、店のおじさんは1円も負けてくれませんでした。

でも、「これは手に入れておかなければ...」と思い、言われるままに500円で買いました。

今思えば、500円を惜しんで逃したりしなくて良かった...と。

形式は明らかに壬申地券。和紙で発行は明治6年12月です。代価の横に地税の比率の記載があるタイプです。この地券の分からないところは、
 1.「代価」を「地価」、「百分之三」を「百分之弐ケ半」、「地税」を「地租」と書き直し、壬申地券を改正地券の形式にしている。
 2.持主は変わっていないが、地番と土地の面積、代価(地価)が書き換えられている。

1.の壬申地券の形式を朱書きで訂正して、そのまま使うというのは、これまで見てきた地券の変遷から考えると理解できません。 その場しのぎでもしたのだろうか、と思ってしまいます。しかし、2の行為は、ある土地に発行された地券を別の土地用に書き換えた ことになります。では、書き換えられる前の土地の地券は? 例えば、AさんとBさんが互いの土地を交換するような売買をした場合、 Aさんの名前が書いてある壬申地券の土地をBさんの土地の地番、面積、地価に書き換え、Bさんの名前が書いてある方にはAさんの土地の記載に 変更する。そうすれば、確かに新しい地券を2枚発行せずとも、書き換えだけで対応できます。しかし、書き換えられた地券はなんと見に くい(醜い?)ことか。

 この地券をはじめてみたときは、効力を失った壬申地券を使って、改正地券の雛形(ひながた)を作ったのかとも思いましたが、ご丁寧に 訂正箇所には訂正印が押されています。訂正印は山口県玖珂郡長のものです。先に書いたように郡役所が設置されたのは明治11年ですから、 改正地券の雛形であるわけはありません。


いつものことですが、ある制度について、その運用の実態に関する史料を見ていくと、なんだかすっきりしない実例が出てきます。制度の とおり運用されていないように見えるだけなのか、つまり附則や運用規定には書いあるのか、それとも臨機応変に対応したこともあったのでしょうか。

 受験対策の歴史では、「何年に○○というお触れが出された」という感じで覚えますが、本来はそれを為政者が発した意味はなんだったのか、 そしてそれがどのように運用されたのか、さらに制度として良いものであったか、を評価するような学習をしないと、歴史を学ぶ意味がないと思います。

とは言いながら、私はいつも運用面の調査が主体で、制度をじっくり調べない向きがあります。
(時間がないのを理由にしていますが、運用面を調べる方が時間はかかります。)

 ともかく、地券については、制度と照らし合わせながら再度整理が必要のようです。



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